米軍上陸の地碑 [マップ]


比謝川河口を見下ろす地点にある碑

 渡具知とはチグチ(津口)からきた名だと思います。沖縄方言でチグチとは、何かにつけて都合のよい所という意味があり、わけても交通の便や商売するのに適した所と言えましょう。
 船着場は、まさにそのような条件を満たしているのではないでしょうか。渡具知はもしかしたら、漢語の渡口(渡し場)からきた言葉かも知れません。
 同じ音の地名には渡久地(本部)や渡口(北中城)がありますが、どちらも現在、または過去に船着場だったようです。
 港ならば当然、人間の往来が多く、物資の集散も盛んに行われたことでしょう。
 「電信屋」の碑の道路と反対側の土地は、屋号蔵根という家の屋敷でした。港は物資の集散が多いことは先にも述べましたが、そのために蔵は大事なものです。蔵根という屋号もそうした港口との関係を思わせます。
 そのような水戸口(みなとぐち)、すなわち湊口には外来の文物が入りやすく、また外敵の侵入口ともなった明暗の歴史がありました。
 渡具知に限って言いますと、近くにある渡具知東原遺跡は、渡具知という港口から文物が入ってきたという名残でしょう。
 次に、沖縄の歴史を暗く惨(みじ)めにした一大要因は、1609年(慶長14)、薩摩の琉球侵略とその後の武力支配にあるのですが、その時、薩摩軍はここに上陸し、比謝橋を通って首里に進軍しています。
 第2次大戦末期の1945年(昭和20)4月1日、アメリカ軍はここに上陸し、一般住民を巻き込んだ悲惨な沖縄本島での戦闘となったのです。
 チグチ(津口)は、外来文物の受入口となり、この地の文明・文化の発展に貢献しましたが、その立地の良さはまた、外敵の侵入口ともなり、筆舌(ひつぜつ)に尽くせない惨劇をもこの地にもたらしたのです。
 語るも忌まわしい戦争ですが、私たちは忘れることなく悲惨な歴史を思い、反戦の願いと誓いをこめて、このアメリカ軍上陸地の碑の前に立ちたいと思います。


軍需物資を陸揚げする米軍

洋上に多数の輸送船や軍艦が見える

日本軍の攻撃はなく無血上陸となった

嘉手納水釜沖からの航空撮影

水陸両用戦車で上陸地点へ向かう米軍


勿為沖縄戦場
−沖縄を戦場とすることなかれ−