義烈空挺隊玉砕之地碑 [マップ]


役場庁舎西側に立つ碑

 読谷村役場新庁舎前の道路(旧誘導路)を隔てて写真で示すような碑が立っています。元は単なる四寸角ぐらいの木柱でしたが、現在ではご覧の通り、白ペンキ塗りの大きな柱に墨痕(ぼっこん)あざやかに「義烈空挺隊玉砕之地(ぎれつくうていたいぎょくさいのち)」と大書されています。
 空挺隊とは、航空機で敵中に進入し、パラシュートやグライダー、または航空機自体で強行着陸して敵陣を撹乱(かくらん)する特別攻撃隊(特攻隊)です。
 「義烈空挺隊」は、「義号作戦」にのっとって行なわれた作戦で、その目的は、飛行場爆破、後方撹乱であり、の目的達成のため、陸軍中野学校出身者が指揮官となり、それに沖縄出身者が2名搭乗していたといわれます。
 『沖縄方面陸軍作戦』によりますと、
 「(1945年)5月24日18:50、奥山隊長以下120人が搭乗した12機が熊本健軍飛行場を離陸。22:11飛行場突入の無電。北飛行場に6機、中飛行場に2機着陸(4機は引き返す)」となっています。
 一方、『アメリカ軍戦史』では、
 「北飛行場に5機侵入、4機は撃墜され1機が胴体着陸した。アメリカ軍の損害は9機炎上・29機損傷、7万ガロンのガソリン炎上。死者20名。日本兵の死体は69。(中飛行場の記録なし)」とあるようです。
 この作戦で2名の沖縄出身者(山城金栄准尉と比嘉春弘伍長)が搭乗していますが、山城准尉は中飛行場で戦死したようです。
 特攻隊は海上の艦船への体当たり攻撃だけではなく、このように陸上の敵陣への攻撃もあったわけです。
 碑柱の建立者は不明ですが、水や酒、それに線香なども供えられたあとがありますので、関係者は時々訪れているようです。
 ここでは碑柱に書かれている通り、「義烈空挺隊玉砕之地」という標題にしましたが、今日では「玉砕」というかつての武士道精神や旧軍隊語からきたこの言葉に異を唱える向きもあります。


碑柱向かいに建つのは読谷村役場