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5 シベリア抑留体験
シベリア抑留者座談会

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 収容所での共産主義教育

玉城 僕らはドイツの連中と友だちで。
新垣 私も友だちになったよ。
司会 ドイツ語がしゃべれるんですか。
玉城 なんとかなるんだよな。あっちも日本語わからん、こっちもドイツ語わからんのに。同じ捕虜だし。
司会 同じ敗戦国同志で。
新垣 同じ気持ちだのに。
玉城 彼らはよくタバコを持っていたな。
新垣 だけどね、ソ連の兵隊監視人はね、労働の行き帰りにドイツの捕虜とすれちがう場合には、道を遠回りしてできるだけすれちがわせなかった。
司会 なるべく接触させないようにですね。
新垣 させない、道もおおまわりして。
司会 タバコを持っていたと言われましたが、タバコの配給もあったんですか。
玉城 僕らの所は後からありました。なんか根っこを削って、紙で巻いて。
安里 あれはマホルカというんです。
玉城 おがくずみたいなやつ。タバコの根っこを削ったやつ。
安里 タバコの茎とか根っこを。
玉城 新聞紙とか紙で巻かないと吸えないんだよ。この紙が面白いんだよ。うちのところでは日本語でね、日本語の新聞がくるわけさ、いわゆるあっちの教育なんでしょうな。これをもらうために毎晩教育を受けに行くわけさーな。新聞もらいにさ、そうしないとタバコ吸えないから。これしかくれないから。
司会 どんな教育ですか。
玉城 いわゆる向こうの政策、共産党のさ。
安里 僕なんかずいぶん勉強したよ。
玉城 僕は徳田球一を知らないということで叱られてね。「おまえー、沖縄出身のくせに徳田球一をわからんのか!」と言われてね。徳田球一と野坂参三の写真はずっと収容所にあったな。
新垣 しかし、向こうの人は徳田球一のことをよく知っていたよ。そして我々捕虜同士が集まって話しをするということに対して、非常に厳しかったですね。ときたま、むこうの命令で演芸会しなさいというのが出てくるわけさ。それで演芸会の打ち合わせなどをしていると、監視兵が急に入ってきて「今の集まりは何か!」という。演芸会の相談だったと言って説明したがね。
玉城 そう、収容所内でみんなが集まると、すぐに監視兵がきたね。
新垣 これはもう区別なく、一番嫌いおった。だからそういう関係でドイツ人ともすれ違わせなかったんでしょうな。どういう行動起こすかわからないという。
安里 共産主義教育の受け方についてもね、ほんとに「これは新しい」と信じているグループと、「まあ、これやらんと帰れないんだろう」と打算的にやっている人のグループに分かれていました。またね、「絶対これだ」と初めからもう文字どおり、積極的に教育を受けているグループもあった。だからほんとうにこれだと思った人たちは、日本共産党の党本部に行った連中なんかもおるんだよ。
司会 具体的にはその思想教育というのはどんな風に行われるのですか。
安里 日本新聞というのがあってね、先ほどタバコの巻紙の話をしたんだが、最初はみんな、日本の教育で「赤は悪いもん」と考えていた。だから初めは、これは赤の教育だからといって、いい加減なもんだといって相手にしないわけさ、読まないわけ。だけどタバコ巻くには紙が必要なんだよ。セメント袋の紙では吸えないんだよな。巻き紙を手に入れるために手に入れたんだが、読むものがないからだんだん新聞の内容を読むようになったわけよ。それで、それを読むようになったら今度はね、ちゃんとこんな本が出てきたんだ。
司会 新聞というのはどの大きさですか。
安里 B3くらいの二つ折りで四ページの新聞。
司会 そしてそのうち、字に飢えていて暇だから文字を読んでいくわけですね。
安里 結局その収容所内に、そういうのを指導していくグループができてね。
司会 早く共産主義に変わった人たちが指導員になっていったのですね。
安里 そうです。

 往復はがき

玉城 不思議なことに僕は、収容所から往復ハガキを送ったんですよ、検閲を受けてからね。それがちゃんと届いていましたよ。そして僕は、なんか知らんがもうおやじいないなーという勘があったもんだからね、母の名前で出したわけさ。その返事を出してくれたのが野村※※なんだよ。それで生きてるのがわかったんだ。

安里 それハラショー・ラボーターだからこれができたわけ?僕らはハラショー・ラボーター関係なくみんなに書かして送ったよ。
玉城 ハラショー・ラボーターだけ。
司会 それはどういう意味ですか。
玉城 ま、優秀生のこと。
安里 ハラショーというのはロシア語で上等ということで、優良労働者のことです。
玉城 往復ハガキなんてみんながうそだと思っていたが、本当に返事がきていたよ。
安里 めずらしいね。
玉城 めずらしいよ。
安里 僕らはハラショー・ラボーターだけでなく、みんなが送ったよ。そのかわり、検閲官が読めるようにカタカナで。父は返事をソ連へ送ったと言っておったが、僕は受け取らなかった。二回目からは、漢字で書いて送ったよ。

捕虜用郵便葉書



安里※※が父※※に宛てて送った1回目のはがき(表)


2回目のはがき(表)


同上(裏)


同上(裏)

 ちり紙なしの便所とサウナ

安里 便所で尻を拭くには何を使った。
玉城 あのね、防寒用の綿入れから綿を出して、あとで綿なくなってしまった。
新垣 だから自然と綿入れもうすくなるさ。
安里 ソ連の人はお尻拭かないらしいよ。
玉城 拭かない、拭かないソ連は。あれなんかが便所に入った後を見ても拭いた様子がないんだよ。僕らは、入所当時持っていた紙がだんだん無くなってね、木の葉も使ったな。しかし冬になると木の葉は無くなるさ。
司会 まして針葉樹ですからどうしようもないですね。
安里 僕なんかね、昔便所(フール)の前にバーキを置いて、それに入れておいた葉っぱで拭いていたからこの方法で間に合わせたよ。シベリアでは歩きながら薪の切れっぱしを探して歩くわけさ。別に不自由しなかったよ。
新垣 便所といっても、凍結してどんどん高く積まれていくからね、それをバール(先の尖った鉄製の棒)で割り壊すんだよ。
玉城 屋外の便所でその作業やっているときは臭くもないし、何でもないわけ。その後、温かい室内に入り服についた氷が溶け始めると大変だわけ。
安里 氷を割ってね、ショベルでかき捨てる。
新垣 うちの炭鉱の便所はね、二〇メートルぐらいずーっと横穴を掘ってね、それが四列に並んでいるんです。
玉城 そう、朝一緒にみんなでそこで用を足す。
司会 おしり出すときは寒いですよね。
玉城 尻は強いよ、やっぱり。
安里 零下三〇度でも大丈夫だよ。
司会 風呂はどんなですか、ぜんぜん入らないんですか。
安里 日本のような風呂は、向こうにはない。
新垣 わたしのところは蒸風呂、一週間に一回。そこで裸になって、脱いだ服は消毒するわけさ。そして出口は別の方向から出て、熱風消毒した服を受け取る。
玉城 僕らのところも今でいうサウナ、そういう所に入って汗かいて、そこで落としなさいというわけさ。出る時、樽に入った水を飯盒一杯くれるわけ、それで流しなさいと。
司会 それだけですか。
新垣 お湯は配給だった、一杯だけ。二升ぐらい入っていたかな。
安里 サウナに入ってあがり湯がもらえる方はいいさ。僕ら初めの頃は、配給のお湯も飯盒の一杯だけで、体を濡らして石鹸つけて落として、もうそれで終わり。
新垣 衣服は五分で消毒するからね。消毒し終わる時間までに出てこないといかん。つぎからつぎへと入ってくるから。
玉城 サウナの出口に散髪屋がいたでしょ。上も下も毛のあるだけどこでも剃ってしまう。そこを通らんと出ていけんのに。
司会 衛生のためにですね。

 ダモイ(帰国)まで

玉城 僕はあの当時一緒だった北海道の友だちがいるよ。この人は元は陸軍曹長で炊事におったんだが、シベリアで一緒に重労働していた。
 その人がシベリアで別れる時に「沖縄では地上戦になったそうだから、もう君は私の故郷の北海道に行きなさい」と言って、住所を書いてくれた。しかしナホトカで何もかもとられて、裸にさせられたでしょう。だけどその人の北海道の住所はずっと憶えていたよ。
 その後北海道へ行って探してみたら、その人は健在で農協の部長をしていたし、ぼくも農協の組合長だったので、今でもつき合いがあり往き来していますよ。向こうも二、三回沖縄にも来ているしね。
安里 私はナホトカで一年以上おったけどよ、捕虜同士、同じ収容所に同じ人たちと一緒に並んで寝て、それで作業していたよ。しかしね、ここでもまた別の話はするけれども、家の話をする人は一人もいない。だから誰も知っているのいない。一緒にこう並んで寝てよ。朝起きて仕事に行く、また帰ってくるんだよ。
新垣 ナホトカにはそんなに長くおったんですか。
安里 一年以上おった。
新垣 仕事は何かあったの。
安里 アパート建築から鉄道敷設の作業です。ナホトカでの生活といえば、一か月経ち、二か月経ち、次の船が来るのをずっと待っている。雪が降って海が凍ってきたらナホトカ港に船が入らんから、「ああ、もう来年まで船はこない」とその年の帰国は諦めて。「氷が溶けて船が入ってきたら帰れる」という希望を持って。帰れると希望をもっていたけど、だんだんのびてね。
司会 他に何か仕事はしましたか。
安里 夜中の貨車積載資材の降ろし作業。汽車が入ってきたら貨物を降ろしに行くんだよ。その作業を夜中じゅうやって、昼の作業時間からも引かないんだよ。
司会 夜働いてもまた翌日同じように朝からですか。
安里 あー同じ、これも割当。今度はあっち行け、今度はこっち行けといって。だいたいそういうのは僕らみたいな若いのにさせたんですよ。
司会 何を降ろすんですか。
安里 いろんなのがあるよ、建築資材とか。
玉城 鉄道のレールも積んでくるしね。それを一五人ぐらいで並んでいて、手で降ろすんだよ、大変だよ。あのシベリア鉄道のレール、僕らが運んだんですよ。シベリア鉄道と満鉄の幅が違うということで、片線をずっとのばしてね。あっちの汽車は日本の汽車より大きいでしょう。だから片線だけ伸ばして、ずっとつないだ。
安里 ソ連は満州の北安から黒河までの三五〇劼寮路をはがして持っていっているよ。
玉城 あーそうね。
安里 すごいことやってるよね。
玉城 僕は、最後の作業では地下道を掘ってるんですよ。怖いくらい深いから、誰も降りていかんもんだから、僕らは「まー死んでもいい」と思っていたからさ、無視して入って作業をしていたよ。
 上の方から女が見ておったんだが、それが「次の船で日本へ帰れるよ」と言ったわけさ。そしたらみんな笑って「嘘だろう、それ」とね。それが言ったとおり帰してあったですね。
新垣 ナホトカ収容所内に、第一収容所、第二、第三とあったと思うんですよ。
安里 はい、ありましたね。
新垣 一、二、三で、帰れる人はもう三に来ていたんじゃない。なんかコースがありましたよ、順序よくね。それで帰れない人はまた別に送り出す。帰していいというのは全部三に入れてね。
司会 この帰すとか帰さないとかっていうのはやっぱり基準があったんですか。
安里 あったと思うんだよね。
新垣 いちいち彼らがチェックしていましたよ。
玉城 チェックしています。
安里 最初に帰したのはね、役にたたない者、怪我した者、先に帰すんだよね。
新垣 そう。早い時期に帰したのは病院船だった。帰るとき私は、この病院船からきたわけ、ナホトカから舞鶴には。病院船で帰ってきたけれども、ほとんどね、頭がどうにかしてる人が多くて。
司会 ノイローゼですか。
新垣 はい。それで私は着くまで、乗船している患者の病歴を書く係りをさせられました。
 日本に着くまでずーっと亡くなった人の病歴、あるいはまた現在寝たきりの人々の病歴の調書作り。それを報告しなければいけないとかで書かされたけれども。
司会 病院船の中ではどんな病気が多いんですか。
新垣 病気というよりも、怪我した人がほとんどでしたね。
玉城 すると、そういう病人を先に帰して若いのは残されたんでしょ。いわゆる洗脳のためにね。

 死亡者氏名を持ち帰る

司会 ナホトカから引き揚げて来るときは、持ってるものを全部とられたんですか。
玉城 僕はもう全部とられた。
安里 僕は日本軍の毛布で作った服を着てきた。そして外套はソ連の兵隊が着ていたやつを貰って。
新垣 私達はナホトカでね、日本に帰ると言ったら服を交換しおった。
司会 あっちから帰って来るときに、残っている沖縄の人が「自分はどこそこの出身だが、もし先に帰ったら連絡してちょうだい」ということはあったんですか。
新垣 そういうこともありましたね。
玉城 僕は恩納村の人に頼まれたよ。
安里 元特務機関の人たちの遺言書は持ちかえれないので、それを数人で暗記して遺族に伝えたという話を聞いたことがあるよ。
新垣 僕は沖縄に来るとき、持ってこられたよ。
玉城 ナホトカから?
司会 ナホトカから出るときは、何も持たせないんですよね。
安里 軍医が眼鏡のつるに死んだ人の名前を書いて持ちかえろうとして、それを発見されてね。後戻りさせられた人がいるよ。
新垣 死亡者の氏名を書いているのを持っているとね、全部取り上げでした。しかし私は薄い罫紙に名前を書いて、細く巻いて紐状にして、靴ひもの代わりに差し込んできました。靴ひもに入れてきたら、大丈夫でしたよ。そうして北海道と秋田それぞれ一人、二人は送ってあげたけれどもね。そんな簡単には持ち帰れなかったですよ。
安里 でも日本に帰らんといかんからね。捕まえられたり見つかったら大変というのがあるから、普通はしいてまで持たなかったですよ。
司会 そうですか。

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